大川小訴訟からみる災害被害の責任

東日本大震災のとき石巻市の大川小学校では、児童と教員の合わせて84人が津波により死亡または行方不明になりました。
その責任を求めた訴訟の判決が先日出され、学校側が遺族に賠償を支払うよう言い渡されました。
しかし今日、市の幹部が控訴する意向を伝えたと言います。
 
控訴の理由は津波の到達を予見できなかったというものだけれど、「先生たちに責任を負わせるのは辛い」という本音のほうが理由としては大きかったように思えます。
そうなると責任は誰がとるべきなのでしょうか。
 
災害が起きたとき、その責任を国や県などの自治体に求めるケースは多く存在します。
崖が崩れた、堤防が決壊した、橋が崩落したなど、管理責任者が文字通り責任を追求されるケースは少なくありません。
そこに欠陥があれば当然ですけど、欠陥がない場合でも自治体相手に賠償を求める裁判はいろいろなところで起こされています。
 
でもこれって相手の顔が見えないから、気軽に裁判を起こせるんじゃないかと考えてしまいます。
しかも賠償で使われるのは税金であり、もともと自分たちのお金って感覚もあるでしょう。
もしこれが知り合いであったり、個人であったら、どうなのでしょう。
東日本大震災のような大災害のとき、明らかに人災と言えないようなことまで責任を追求していいのでしょうか。
 
大川小の場合は裏山に逃げれば津波被害に遭わなかったのに、北上川の橋のたもとの小高い場所に避難したために津波に遭ってしまった。
これを人災と認めるのは、遺族の方には申し訳ないけれど、先生たちにも自治体にも酷だと思えてなりません。
もしも避難訓練の時から裏山に逃げることが通常の避難行動であったなら話は違いますが、そこまでの避難行動がマニュアル化されていないとすれば、先生たちの判断は結果的に間違っていても、責任を負わされるところまではいかないような気がします。
 
もし東日本大震災のときに近所の人が善意でおばあちゃんを車に載せたとします。
でも車は渋滞に捕まり津波に飲まれてしまったら、近所の人を相手に民事訴訟を起こせますか?
車ではなく歩いて高いビルに避難していれば助かったはずだと言えますか?
 
災害時は咄嗟の判断で生死を分ける場面が多くあるでしょう。
その判断を間違えたからといって、責任を負わされるのはちょっとどうなのでしょうか。
 
大川小の訴訟で遺族の方は辛い気持ちもあるでしょう。
でも亡くなられた先生の遺族も辛いはずです。
責任とか賠償とかではなく、もっと別のかたちで生き残った人のやるべきことを考えてみるべきではないでしょうか。